2016年11月28日月曜日

ボケたくなけりゃビールを飲め!

今朝の読売新聞に《ビールの苦み成分が認知症を予防する》とあった。
認知症は加齢に伴い、脳内にタンパク質の「アミロイドβ」が蓄積することが
原因とされているが、ホップ由来の苦み成分である「イソα酸」がアミロイドβ
を除去する作用が見られたという。ボクは昔からこういう記事には目がない。

一昨日も新聞で『腎臓をもみなさい』(アスコム)という本の広告に目がゆき、
さっそくアマゾンに注文、ものの30分で読んでしまった。高血圧のおかげで
ボクの腎臓は電通の社員並みに過重労働を課せられている。でも、簡単な
マッサージを施せば、弱った腎臓がみるみる回復するという。ボクはこういう
広告文句にもすこぶる弱い。マッサージはたったの1分。〝腎臓をもみなさい〟
でググれば、ユ-チューブにも動画が載っている。

そのマッサージを昨夜寝る前にやってみた。
そして蒲団の中に入ったら、なぜか体中がポッカポカ。
いつのまにか深い眠りに入っていた。

べつに〝健康オタク〟というわけではないが、
身体じゅう、どこもかしこも悪いところばっかりなので(顔と頭以外だけど)、
少しでも健康寿命を延ばそうと、ボクなりに努力しているのだ。

赤ワインのポリフェノールは血液をサラサラにする、なんて記事もかつてあった。
血液ドロドロ人間のボクにとっては福音みたいな記事である。
で、さっそく赤ワインをガブ飲みし、血液をサラサラにしているのだが、
なんだかますますドロドロになっていくような気がしてならない。←バカ

世の酒飲みたちは、ビールを飲めば認知症にならないとする今朝の記事を
天啓のように受け取り、さっそく酒屋に走るだろうが、記事には《飲み過ぎには注意!》
とも書いてある。でも意地汚い酒飲みには説教くさい記事は目にとまらない。
いつだって自分に都合のいいところだけをつまみ食いしているからだ。

苦みの利いたビールを飲めば認知症になりにくい、という。
が、昨日の晩飯に何を食ったか、もう忘れてしまっている。
たしか缶ビールを2本飲み、白ワインも数杯飲んだはずなのだけど……

苦み走ったいい男、と日頃からいわれているボクは、
御多分に漏れず苦いものが好きだ。ビールにコーヒー、ビターチョコ、ふきのとう。
臼井隆一郎は《大人が生きていく上で必要な認識は、苦みからしか生まれてこない》
と名言を吐いた。まったく同感。藤圭子は♬ わたしの人生暗かった……と歌った。
実はボクの人生も真っ暗闇の連続だった。おかげで苦み走ったシワが刻まれたわけ
だが、苦いものばかり食べても認知症にサヨナラできるわけではないらしい。

イソα酸はビールの苦みの元であるホップの花に含まれているもので、
コーヒーやチョコレートには含まれていないらしい。だから、ボケ老人になりたく
なかったら、ひたすらビールを飲みまくるしかないのだ。
よーし、今夜からガンガン飲むぞォ。
酒の飲めない下戸どもは、ボクら酒飲みの代わりに揃ってボケてくださいまし。





←六義園の紅葉。先日、女房と長女が
見に行った。

2016年11月24日木曜日

一朝目覚めたら、そこは雪景色だった

昨日は忙しくも楽しい一日だった。
午後、イタリアはトリノから3人のお客さんがあったのだ。
長女が高校2年の時、AFSという留学プログラムによって
イタリアへ派遣された、という話はすでにしているが、その留学先の
ホストファミリーの長男アドリアーノが友人二人を伴って初来日したのだ。
サービス精神旺盛な長女が張り切ったのは言うまでもない。

午前中から昼にかけては川越で過ごした。
この三人組、好奇心旺盛で、よく食べよく飲みよくしゃべる。
長女も退社後に待ち合わせ、飲み会につき合っていたらしい。
彼らの休日はわずか1週間。京都など関西へ行く余裕がないので、
今回は東京オンリーに絞っている。渋谷を根城に、すでに秋葉原や浅草、
銀座など主だったところを大急ぎで見て回った。朝まだきの築地も見たし、
長女の案内で新宿都庁ビルからの夜景も楽しんだ。

アドリアーノは長女と入れ違いに米国サンフランシスコに留学している。
同じAFSの高校生留学プログラムである。だから英語ができるし、
友人二人も流暢にしゃべる。ボクら夫婦は会話はからっきしだが、
ヒアリングはそこそこできるので、話はつながっていく。
それに通訳係にと次女も駆けつけてくれている。次女もかつてはAFS留学生で、
高校時にアメリカに1年、大学のときにイギリスに1年間留学している。
だから食卓では日本語、イタリア語、英語がにぎやかに飛び交った。

もてなしの料理はメインがおでん鍋と手巻き寿司。
最初はいつものきりたんぽ鍋を予定していたが、急遽おでんに切り替えた。
娘たちが「また同じ鍋?」と異議を唱えたからだ。サブメニューとしては
自家製〆サバとマダイの昆布締め、芝エビのから揚げにレンコンの煮物。
アドリアーノが川越で生のレンコンを目にした時、「あれは何なの?」
と長女に尋ねたらしい。イタリアにはレンコンはないのかしら。
その話を電話で聞いた女房がさっそくスーパーへ走り、買い求めたのだ。
日本人の「お・も・て・な・し」はとにかく徹底している。

日本酒もばっちり用意しておいた。
アドリアーノの友人二人(シモーネとアレックス)が日本酒に惚れてしまい、
長女によると底が抜けたように飲む、と聞いていたからだ。実際、濁り酒と
純米無濾過の生原酒を用意したら、あっけなく開けてしまった。ボクも入れて
2升近くは飲んだだろうか。酒豪のシモーネはそれでもケロッとしている。

歌も歌った。アドリアーノは音楽関係の大学でホルンとピアノを学んでいる。
どっちかというとクラシック好きのようだが、ポップスだってお手のものだ。
ボクたちは酔いにまかせて蛮声を張り上げた。楽譜を見ながら『カントリーロード』
を歌い『ゲットバック』を歌った。これはけっこうすばらしいハーモニーだった。

彼らは明日帰国する。
どんな思い出を持ち帰ってくれるのか。
日本に来てよかった、と思ってくれたら最高なのだが……。







←一朝目覚めたら一面雪景色だった

2016年11月17日木曜日

上知と下愚は移らず

ご趣味は何ですか、と訊かれるのが一番困る。
無趣味を絵に描いたような男だからである。
昔は履歴書なんぞの趣味の欄に「読書、音楽鑑賞」などと書けば、
差しさわりがなかった。ところが今はどうだ、「読書、音楽&映画鑑賞」
などと書くと、「つまらなそうな人ね」と思われてしまう。

つまらなそうな朴念仁と思われようが、ボクはいっさい気にしない。
ボクの「読書」は体質として身についてしまったもので、ボクから切り離す
ことはできない。書斎の机の上には、まだ目を通していない本が山と積まれている。
横にも後ろにも本、本、本。そんなbook-wormなのに、今日もまたアマゾンに
新刊を注文してしまった。ほとんど活字中毒と言っていい。

百聞は一見に如かず、などという。
寺山修司は『書を捨てよ、町へ出よう』なんて本を書いた。
御多分に漏れずボクは若い頃、よく旅をした。一人旅である。
それなりに面白かったし、収穫もあった。

社会人になってからは、記者稼業の宿命か、全国をくまなく歩いた。
海外にも飛び出していった。多くの人にも会って、十分すぎるくらい見聞を広めた。
その一方で、If an ass goes a travelling , he'll not come home a horse.
(ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない)とする西洋の俚諺
が耳の奥でこだまする。

Travel makes a wise man better , but a fool worse.
(旅は賢者をさらに賢くし、愚者をさらに愚かにする)という諺もある。
ボクが賢者なのか愚者なのかは知らない。
賢くもあり愚かでもある、といったところだろう。

上知と下愚は移らず、と古人は言った。飛びきりの賢者と底なしの愚か者は、
いつまでも変わることはないという意味である。「下愚」、すなわちおバカなロバには
つける薬がない、ということだ。

ここでいきなり話は変わるが、テレビの国会中継か何かで、民進党や共産党の
国会議員、たとえば蓮舫や辻元清美、枝野幸男、安住淳、志位和夫といった
面々の顔をしみじみ見てしまうと、つい「Ass」とか「Fool」「下愚」という言葉を
思いうかべてしまう。下愚の代表はloopy鳩山だった。あの〝鳩〟は底抜けの
愚か者だった。かれら愚者どもを見るにつけ、ロバは死ぬまでロバ、
バカは死ななきゃ治らない、としみじみ思ってしまうのである。

旅はしたい。だが今はもう昔のような旅はできない。膝痛があるからか、
何をするにも億劫になってきている。知らない土地を歩くより、
本の世界で〝百聞〟にふれたほうがいい。本の中には時間や空間を超えた
それこそ未知の世界が限りなく広がっている。ボクは時にチンギス・ハーンとなって
草原を駆けめぐり、時に司馬遷となって中華千年王国に想いを馳せる。

それでも「下愚」のまんま、というのなら、それもまたいい。
ボクは書を捨てない、町にも出ない。
名誉ある孤立、ならぬヒッキー(ひきこもりの俗称)に甘んじよう。





←北側バルコニー(5階)から見た風景。
木陰越しにテニスコートが見える。落ち葉の
風情がいいですねえ




2016年11月14日月曜日

赤ゲット様のお通りだい!

今日は恵比寿ガーデンプレイス内にある「ジョエル・ロブション」で食事会だ。
義兄の一人娘(スイス在住)が婿さんを連れて来日、兄弟姉妹にお披露目して
くれるというわけである。婿さんはドイツはエッセン生まれの好漢で、
今は二人してスイスの首都ベルンに住んでいる。

星付きレストランでの食事は久しぶり。
もちろんドレスコードがあるから、一張羅のスーツに身を包んでのお出ましだ。
馬子にも衣装で、日頃ユニクロの服ばかり着ている男も、仕立てのいい服を
纏えば、まあそれなりに見られる。

ロブションは今日で3回目。
さすがにしっかりした味つけで、フレンチにうるさい女房もご満悦だ。
会話は婿さんが英語でしゃべり、夫婦同士はドイツ語。
ドイツ語はもうすっかり忘れてしまったが(恥ずかしながら独文学専攻です)、
英語の聴き取りだけはなんとかなった。しゃべるのはからっきしだが、
耳だけはいいので、何を言っているのかくらいは、
おぼろげながらわかる(と思いたい)。

話柄は多岐にわたり、トランプ大統領誕生の話にまでおよんだが、
政治と宗教の話はふさわしくないという西洋の慣習に倣って、
適当なところで切り上げた。ワインはシャンパンに始まり白ワインへ。
ボクは赤ワイン派だが、ボク以外はみな下戸なので、いくらタダ酒とはいえ、
勝手に注文するのははばかられた。で、酒も適当なところで切り上げた。

食事会の楽しみは料理もさることながら、やはり〝おしゃべり〟に尽きる。
それも下世話なやつではなく、できれば高尚な中身のものがいい。
でもその高尚なものをひとくさり弁じようにも、言葉がついてこない。
義兄は英語も独語もペ~ラペラだが、こっちは〝ぺ〟くらいなもので、
語学力はひどく貧しい。というわけで、「高尚」もひとまずお預けにしておいた。

ボクにとっては久々の〝上京〟で、膝の痛みさえなければ、
中学校以来の「東京見物」でもしたいところだったが、
食事会がハネたら、そのまま帰宅してしまった。

ボクの住む和光市は東京と埼玉の境にある町で、
渋谷や恵比寿なら20~30分で着いてしまう。
知らない人は埼玉の山奥にある町と勘違いしてしまうのか、
「まあまあ、遠路はるばるいらしていただき……」などと
恐縮してくれるが、なに、板橋区と練馬区に挟まれた町だから、
ほとんど東京と言っていいくらいなのである。

昔は東京がボクの庭だった。
東京中をくまなく歩きまわったから、知らないところはなかった。
今は逆で、ウォーターフロントはほとんど知らないし、渋谷や銀座、
丸の内もずいぶん変わってしまった。
いつの間にやら完璧な赤ゲットになってしまった。

飛行機にはとんとご無沙汰だから、羽田や成田の変身ぶりも知らない。
カミさんに言わせると、見違えるように変わったらしい。

ボクは典型的な〝おのぼりさん〟になり果ててしまったようだ。










2016年11月10日木曜日

白んぼのご先祖は黒んぼ

朝日の記事によると、国内で生まれる新生児の50人に1人はハーフなのだという。
その数、年間約2万人。たしかに身近なところでもハーフの子をよく見かけるように
なった。現に、わが団地にもハーフらしき子が何人かいるし、近所の男友だち
(豪州人)の子も日豪のハーフである。

うちのカミさんも色白が自慢なのか、「私はロシア人とのハーフなの」などと勝手に
うそぶいていて、こっちも負けずに、「おれだってハーフだかんな」と胸を反らすと、
「どうせボルネオとかマックロネシアのほうでしょ」などとイヤミを言う。

マックロネシアだって……ひどい物言いだ(笑)。
白人とのハーフならまだいいほうらしいが、黒人とのハーフだったりすると、
「色が黒い」とか「髪がちぢれてる」などと、学校でいじめられるという。

毎週のように顔を合わせる女の子がいる。小学校の5~6年生だろうか。
うちの棟の上層階でピアノの個人レッスンを受けている、と言っていたが、
いつもオドオドしたような顔つきで、ボクが「ハーイ、元気そうだね」
と気さくに声をかけると、ようやく顔がほころぶ。

このかわいい少女はたぶん黒人とのハーフなのだろう。
子供というのは残酷な動物だから、外見がちょっとでもちがうと、
「おまえ、ずいぶん色が黒いな」などと心無い言葉を浴びせてしまう。
本人にさほど悪気がなくても、差別された側は大きく傷つく。
おそらくこの女の子も、日頃からそうした差別を受けているのかもしれない。

実はボクの従兄弟たちはカラードである。
父方の叔母はアフリカ系のアメリカ人と結婚したので、その子供たち、
つまりボクの従兄弟たちはハーフなのである。叔父も叔母もすでに
亡くなっているので、アメリカで血を分けた親戚といえばこの従兄弟たち
しかいない。

ボクはフロリダの親戚へは一度もおじゃましたことはないが、
姉と弟が学生時代に1カ月ほどお世話になっている。
広い農場を経営していて、敷地内の池にはワニがいる、
と弟は報告してくれた。

人種差別がまだ激しい時代に、黒人と結婚した叔母の勇気には感動すら
おぼえるが、現代になっても、アメリカの黒人差別は少しも解消されていない。
それどころかますますエスカレートしそうなけはいである。

もともと人類の祖先は黒人だった。黒人の劣性遺伝、
つまりアルビーノ(色素欠乏症、通称白子)が白人種なわけで、
5000年という歳月の中で、徐々に環境に適応していったのである。

白人の黒人差別は、言ってみれば〝先祖差別〟なわけで、
アダムもイヴもほんとうは〝黒い人〟だった、という事実?を忘れてもらっては困る。
「白いのも黄色いのも、み~んな元をたどれば黒かったのよ」
という基本知識さえあれば、人種差別というものがいかに薄っぺらで、
根拠のないものかが分かる。

〝山の神〟の強さ以外に、世に「絶対的」なものなどない。白人至上主義とか
男性優位主義など笑止千万で、バカにつける薬はないのである。
教養を身につける、というのは、すべての事象や価値を相対化する術を
身につけるということで、レイシストはすべからく無教養な輩といっていい。

差別というものは薄汚いものだ。
戦中派の人たちは、時に黒人を〝黒んぼ〟などと呼ぶ。
むろん悪気はない。人権教育などなかった時代に生きた人たちである。
でもボクは、ほんの少し傷つく。
ボクの〝一族〟が侮辱されたように感じるからだ。

ピアノを習っている、髪のちぢれた少女よ!
Keep your chin up!
おじさんはいつだって君の味方だからね。


←「このchinは〝チ○コ〟のチンじゃないからね」
この坊やはそう言っている。

そういえば、かのマッカーサー総司令官は
日本の国民から「へそ将軍」って呼ばれていたっけ。
「朕(ちん)より上にいる」からだって。へへ……

2016年11月8日火曜日

無知でハレンチな豚ばかり

慶大生の不祥事が続いている。
集団暴行事件のほとぼりが冷めやらぬうちに、今度は交際相手の女性を
駅のホームから線路へ突き落とすという事件を起こしてしまった。
早慶ほどのブランド力のない三流大学の生徒だったら、これほど派手にニュース
に取り上げられることもなかっただろうに、有名校に入ったことが、
かえってアダになってしまった。

テキーラを無理やり飲ませ、ベロンベロンに酔わせた慶大の女子学生を
集団で暴行するなんざ、男の風上にも置けない卑劣な連中である。一方、
ホームから突き落とした理由というのが、「二次会へ行くか行かないかでもめた」
というのだから呆れる。こいつら、まるで子供である。いや、それ以下だ。

ボクは勉強が好きなあまり5年も在籍してしまったという(笑)、この知恵遅れの
ガキどもの先輩に当たる男だが、慶應ブランドなんかに特別な愛着を
抱いているわけでもないので、慶大生という肩書を外してこの一連の事件を
冷やかに観望している。

で、口から飛び出てくる言葉は例の「近頃の若い連中ときたら……」という
常套句である。このセリフは人類創生以来、ずっと大人たちの口から、
ある種のやるせなさと共に繰り出されてきた言葉で、そうとう手垢にまみれている。
だからこそ大人の責務として永遠に吐き続けようと、ボクなんかは改めて心に
誓ったりするのだが、気のせいか、若者の品性が年々、お下劣になっていくような
気がしてならない。

いい女がいれば、男なら誰しも「ああ、この女とやりたいな」と思うだろう。
でもテキーラを無理やり飲ませるとか、スクリュードライバーに目薬を数滴加えて
知らんぷりする(腰が立たなくなるらしい。聞いた話だが……)、なんて卑怯な
マネはふつうはやらない。でも、今どきの若い奴らは、その境界線をいとも簡単に
越えてしまう。理性を易々とかなぐり捨て、ケダモノと化してしまうのだ。
〝陸の王者〟も品(しな)下がったものだ。

近頃の若者の特徴を一言でいうと「○○から離れる」のだそうだ。
「車」から離れ、「飲酒」から離れ、「活字」から離れる。ボクたち世代が
こよなく愛したものから、どんどん離れていく。車から離れていくのは別に
かまわないが、酒や書物から離れていくというのは納得できない。
「活字から離れる学生」なんて、そもそも意味をなさないではないか。
学生(書生)とは、勉学を本分とする者の謂いだろう。
いったい大学に何をしに行くのか。まさかナンパじゃあるまい?

《太った豚よりも痩せたソクラテスであれ!》
1964年、東大の卒業式で、大河内一男総長が学生たちに贈った言葉だ。
もともとはジョン・スチュアート・ミルの言葉を引用したものだが、
せっかくの言葉も今や虚しく心に響く。今どきの学生ときたら、
ソクラテスどころか、無知蒙昧でスケベーな豚ばかりだ。

自分一人じゃ何一つできないから、集団の力を借りるという〝付和雷同〟
型人間のなんと多いことか。女一匹くらい、自分の力でものにしてみろよ。
そのうち女房も他人にあてがってもらうことになるぞ、この腰抜けども!

余談だが、痩せたソクラテスはまちがいだという。
当のソクラテスはでっぷりと太っていたらしい。



←人間だって色づくのなら、こんな風に色づいてほしい。
わが団地の「鐘の鳴る広場」にて。

2016年11月7日月曜日

お・も・て・な・し

今月半ば、イタリアからお客さんが来る。
30歳そこそこの若者で、名はアドリアーノ。
ボクの娘(長女)が高校生の時、1年間お世話になったホームステイ先の長男である。

実はこのアドリアーノ、長女の留学時には一度も会うことがなかった。
彼もまた入れ違いにアメリカへ留学していたからだ。
初めて会ったのは、女房と長女が留学時のお礼に訪れた数年後のことだ。

アドリアーノは2週間ほどの休暇を利用し、友人と一緒に初来日するという。
そのことをメールで長女に告げ、長女が実家にも顔を出してくれと声をかけたら
快諾してくれたらしい。で、今、彼に何をごちそうしてやろうか、と日夜考えている。

長女のイタリア語もだいぶ錆びついているとは思うが、
勘が戻ってくると流暢にしゃべり出す。日頃は会社で英語漬けになっていて、
イタリア語を使う機会などほとんどない。たまにイタリア人の女ともだちと
連れ立って出かけたりしているから、せいぜいその時ぐらいだろう。
あるいはフェイスブックでイタリア人のともだちとおしゃべりする時くらいか。

ボクはもちろんイタリア語はわからないし、英語だって相当怪しい。
女房はイタリア料理とフランス料理を得意とする料理記者だから、
イタリア語ですらすらとレシピを書くなんてことはお茶の子さいさいだが、
会話となると、さてどんなものか……

わが家には外国人がよく来る。たいがいは娘2人のともだちか、
ボクのともだちだ。ときどき留学生を預かったりしているから、外国人の扱いには
比較的慣れてはいるが、やはり言葉が通じないというのはもどかしい。

そうだ、やっぱり鍋にしよう。
みんなで鍋料理をつつき合う、というのも外国人にはいい経験だろうし、
和気あいあいとした雰囲気が醸し出せる。ビール以外に日本酒も出してやろう。
燗酒にしたら体も温まるしね。ボクは鍋奉行をやって「あれを食え、これを食え」
とうるさく指示しよう。そして喉に詰まるまで鍋を食わせよう。

ボクはわが家に人を呼んで、プチ・パーティをするのが大好きだ。
生来、サービス精神の旺盛な人間なのだろう。昔は非社交的な人間の典型で、
ともだちなんか1人もいなかったけど、今は佃煮にするほどウジャウジャいる。

来年は、前期だか末期だか知らないが、とうとう「高齢者」の仲間入りだ。
高齢者になったら、友人がいるかいないかで、晩年の生きがいが天と地ほども
違ってくる。気のおけぬ友さえいれば、余生も華やかで楽しいものになるだろう。








2016年11月3日木曜日

「ボケ、土人が!」はやめましょう

大阪府警所属の機動隊員が沖縄の市民デモ隊に対して「ボケ、土人が!」とか
「だまれ、シナ人!」などと発したら、「差別発言だ」として大騒動になった。

「土人」という言葉を聞いて、ボクはまっ先に(ウーン、懐かしい言葉だなァ)と
思った。ボクが子供の頃はごくふつうに使われていたからだ。絵本などでも
アフリカや南洋の島の住民たちは〝土人〟と表記されていた。そこに少しばかり
差別的ニュアンスがあるのは感じてはいたが、それ以上のものではなかった。

メディアは機動隊員の差別発言だけを取りあげて批判しているが、デモ隊の
機動隊員に対する暴言もひどいものだった。
「お前の子供を学校に通えなくしてやる!」
「お前ら八つ裂きにしてやる!」
「大阪のニンゲンは金に汚いからな!」

米国にはpolitically correctとかpolitical correctnessという言葉がある。
差別・偏見のない中立的な、という意味である。1980年代に始まったもので、
主に職業や性別、人種、文化、民族、ハンディキャップ、年齢、婚姻状況等に
よる差別や偏見はやめましょう、といった概念を指している。

たとえばchair man(議長)は男に限った話ではないのでchair personにする、
police manはpolice officerに、manhole(マンホール)はpersonholeに、といった
具合で、マチズモ(男性優位主義)の国であるにもかかわらず、その鎧を袖で
隠した、という感じだろうか。

ボクたちの世代はクリスマスになれば、Merry Christmasだが、今はちがう。
非キリスト教徒も多数いるので、Happy holiday! と言い合うのだ。ボクの次女は
高校生の時にアメリカに1年留学したが、その時はすでにHappy holidayだった
そうだ。

こうした表現はまだ許せるが、mentally challenged(精神障害のある人)とか
short(チビ)がvertically challenged(垂直的障害のある人)に、bald(ハゲ)が
comb free(櫛要らず)などと変身するにおよんでは、
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。それってモロ〝偽善〟じゃないの?」
と言いたくなる。

日本でも痴呆症→認知症、保母→保育士、トルコ風呂→ソープランド、
精神分裂病→統合失調症、ブラインド・タッチ→タッチ・タイピングとなり、
土人は先住民と表記されるようになった。昔はアイヌ民族を保護するという
名目で「北海道旧土人保護法」というのがあったが、今は「アイヌ文化振興法」
というオシャレな法律に衣替えしている。

昔は「味オンチ」のことを「のどめくら」と言ったが、いま「めくら」とか「つんぼ」
なんて言葉を使ったら大変なことになる。
「見ろや、ドめくらの座頭市がこっちへ来るぜ」
とは言えないから、
「見ろや、目の不自由な座頭市がこっちへ来るぜ」
なんだが気が抜けてしまう。
古典落語なんか差別用語のオンパレードだから、これも早晩滅びてしまうだろう。

ボクも自著の中で「コーヒー狂い」とか「コーヒー気狂い」
などという言葉を使おうとしたら、担当編集者から「〝狂〟という字は使わないように
願います」とお叱りを受けた。「なら、クレージーはどうですか?」と訊いたら、
「クレージーならいいです」との返答。
(気狂いはダメでcrazyはOKなのかよ?)
と、ボクは一瞬混乱した。

大阪府警の機動隊の皆さん! 
これからは「ボケ、土人が!」はやめて「ボケ、先住民が!」に訂正してください。
「だまれ、シナ人!」は、なにかと騒がしく、マナー知らずの中国人観光客などに
向かってお使いくださいませ。